「憲法分かってない」訳ではない人に聞いてみたいこと

憲法解釈の変更に関する首相の国会答弁への批判

 憲法解釈の変更なるものに関する安倍首相の先日の国会答弁が非常に注目されており、与野党を問わず随所からさまざまな批判が出てきている。

 「東京新聞:「憲法分かってない」 首相解釈変更発言 与野党やまぬ批判:政治(TOKYO Web)」によると、安倍首相の発言は大要次の通りらしい。

  • 憲法解釈の変更に関して首相が政府の最高責任者である
  • 憲法解釈の変更に関する政府の答弁に首相が責任を持ち、その上で選挙で審判を受ける
  • 憲法解釈の変更に関する政府の答弁に内閣法制局長官は責任を持たない

 こうした発言に公明党井上義久幹事長は警戒的であり、従来の内閣と同様に内閣法制局の解釈を踏襲するよう求めている。その理由として井上幹事長は、内閣法制局が「政府が法案提出する際、憲法との整合性をチェックしてきた」「事実上『憲法の番人』」であるから、その内閣法制局の解釈は「権力を抑制的に行使するという意味で大変重い」だと述べている。
 民主党枝野幸男憲法総合調査会長はさらに厳しい態度をとっており、「権力者でも変えてはいけないのが憲法という、憲法の『いろはのい』が分かっていない」と痛烈に批判している。

ニュース報道に接して疑問を抱いたことと『憲法遺言』の存在

 こうした記事を読んで私は若干の疑問を抱いたのだが、それはとある本に記載されている説明を思い出したからである。その本とは、日本国憲法制定当時の入江法制局長官*1、次代の佐藤法制局長官*2内閣法制局長官を務めた林*3や高辻*4らが企画し刊行した、金森徳次郎の『憲法遺言』*5だ。真理がわれらを自由にする|国立国会図書館―National Diet Libraryで説明されている国立国会図書館初代館長の就任前に口述で執筆されたのが本書である。

憲法遺言 (1959年)

憲法遺言 (1959年)


 このエントリーでは同書の記述を三カ所紹介してから、ニュース報道に接して抱いた疑問点を提示するに留める。「憲法分かってない」訳ではない人の見解を伺いたいものである。

憲法遺言』より


 一つ目は「天皇の問題」の「新憲法明治憲法の改正か」*6の前半部分である*7

 憲法ができる当時において、これが明治憲法の改正であるのか否かについては、実際激しい論争があつた。例えば美濃部博士は、ポッダム宣言受諾と同時に明治憲法は消滅してしまつたのであって、従って新憲法は全然明治憲法と無関係にできたものであると主張せられ、そのために当時憲法改正案が枢密院に付議されたときに、ただ一人反対の態度をとられたと聞き及んでいる。そのほかの学者の中でも、同じような見解をとつた人があり、憲法改正の形をもつて新憲法をつくり出すことは根本的に誤りであつて、仮りにこれが議会の議決を経て公布せられ、当分は有効な憲法のごとくに取扱われてゆくとしても、将来論議が深められて根底無き憲法であると批判せられ、その効力に影響を生ずるものであるがごとくにも論ぜられ、これは議会の論争の中にも明瞭に姿を現している。
 これらの論議の道行きを考えてみると、いろいろな派生的な論点を解決しなければ明白なる結論を得がたいように思う。私自身の見解は、新憲法明治憲法第七十三条規定をもととして適法に改正せられたものと考える。
 この前提のもとに、若干の反対論を批評してみよう。一つの考え方は、ポッダム宣言によつて明治憲法は消滅したと考える。また他の説によれば、少くとも明治憲法天皇主権に関する部分は消滅して、ポッダム宣言によつて国民主権の原理がとつて変つておると主張せられる。いずれの見解によつても、ポッダム宣言という国際的行為が、当然に物的に日本の憲法を動かしたと解釈するのであるが、かような変化が条約によつて起つたと認むべき根拠はどこにも明白に示されていないのであつて、ポッダム宣言はまつたく国際関係であり、これによつて国内法が動かされる理屈はないものと思う。国内法は国家の意思の結晶である。国際条約は国際関係の意思の結晶であり、本体が違うものであるからして、甲が乙を物的に変更するということがあるはずはない。もしこれを是認するならば、国内法は国際法の一部であるとでもいわなければならないであろう。冷静に判断をして、ポッダム宣言は我々に憲法と矛盾する義務を要求していることは確かである。従つて我々が何らかの方法をもつてこの義務を果たすことは、国際的責任であるけれども、物的に憲法が変つたと考えることは、ものの本質を理解しないものである。従つて日本国憲法は元の姿で生きておる。ただこの憲法に基いて適当に処置して、国際義務を履行することが必要となるのみと考える。従つてまた我々は、明治憲法第七十三条によつて所定の改正手続をとることが適当であり、また適法であると思う。故にこの方法によつて改正せられた新憲法の効力に疑いがあるべきはずはない。

 二つ目は「憲法の改正」*8である。

 憲法は、改正しうるものであることは当然のことであり、人類の世界に一たび定めて永久に変えることのできないような法律は到底考えることができないのである。しかしながら、憲法が容易に変化することは、政治の安定性を害するからして、これに対して、改正の手続を厳重にして、その安定性を確保することも一理ある。
 憲法改正の手続は、第九十六条に掲げており、その発案権は国会がこれを持つている。それは、各議院の総議員の三分の二以上の賛成を要する。その承認権は、一般国民が有するのであり、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票においてこれを行う。この特殊な方法は、ひとり憲法の安定性を確保する目的ばかりではなく、元来、憲法は国民の定むるところであり、国会みずからの定むるものではないという精神、即ち憲法制定権の根源的な思想に調和せしめんとするものであつて、発案権を両院が持つているのであるが、その権能は二院がまつたく平等である。二院制衆議院を優先せしむる趣旨で設けられているけれども、憲法の改正に関する限り二院はまつたく平等であつて、一方が他方よりも強き発言権を持ち得ないことになり、その結果、例えば衆議院は賛成し、参議院は反対であるような場合には、永久に憲法の改正が行われない道理になる。これは二院不平等性の根本原理に対して著しい例外をなすものであり、この考え方がいかなる論拠によつて説明せられるかといえば、憲法のごとき重大なる規定の改正は、各方面の十分なる同意を必要とするということに求むるのほかはない。それが果たして正しきや否やは別の問題になろう。
 憲法の改正に関して、改正し得ざる部分があるという見解がある。明治憲法の場合には、国体の規定は改正することを得なかつたと主張せられておつた。しかし、結果において新憲法は、それらの学説にかかわらずでき上がつてしまつたが、新憲法においてもある種の規定憲法改正の客体になり得ずとし、いわゆる永久法の原理を認めんとする者がある。
 その一つは、憲法の前文を活用するもので、いわゆる人類普遍の原理を認め、これに反する一切の憲法を排除するという規定が生まれている。しかし、これはこの憲法を定むるについての理想を表明するのみであつて、正確なる法的効力を持ち得ないと解することが正しいであろう。一つの憲法は将来のあらゆる原理の発生を否定し得ざるべきことは、人間が生成発展するものであることに顧みて疑いを入れる余地はないであろう。
 また、ある種の学説によれば、憲法の前文にある恒久平和の原則に反する改正はなし得ないものであり、換言すれば、憲法第九条を改正して再軍備をなさんとするがごときは、憲法の前文に反し、従つて実効不可能であるとする。この論拠の成立せざることは前に述べたところで明らかであるが、要するに神秘的な憲法神聖論を念頭に置き、その神聖なる原理は、憲法の前文に存在するとなすものであろう。古き思想の遺物が新しき人間の頭にも附着しやすいことの事例に供することができる。

 三つ目は「結語」*9の後半部分である*10

 一九四八年十二月十日の世界人権宣言は、その人権を擁護する規定が非常に詳細であり、日本国憲法の内容よりも理論的に整備せられている感じがする。しかしながら、その内容として盛られているところは、我々の憲法にあるところとほとんど同様であつて、個人的な権利のほかに社会的な権利を多く盛り込んでいることを考えると、日本国憲法が世界の赴くべき道を先に歩いたという誇りを感じうる。
 さらに考うべきことは、日本国憲法は十八世紀憲法の文字を利用することは多いけれども、思想の根底においてこれと全く歩調を同したうしているとはいえないのであつて、個人の尊重に片寄つている当時の憲法に比して、相当量集団生活の幸福に重点を置いている。いわば自由と社会との両端を共に包摂するところに重点を置いているのであり、各条文の間にこの心持は極めて明白に表明せられ、ある場面においては、世界人権宣言の考え方よりも一歩先に行つているのではないかと思われる。
 かくのごとく憲法は、ある意味において見苦しき衣をつけているけれども、美しき本体として現れており、日本国民の現在の思想段階よりも先に進んでいるような面が多い。日本国民は弾力性を持つており、真理を見てこだわらずしてこれに移る特性はあるけれども、しかし、これが完全に実現せられるまでには相当の歳月と経験とを要することは、人類の必然性に伴うものである。過去五年の間に、新しき光にふれて歓喜の心をわき起こしたところの日本国民は、再び転じて古き惰性がおのずから響きもなく忍び寄ることを、恐怖の心を持つて感ぜざるを得ない。
 かような状態のもとにおいて、世界の情勢は険悪なる姿を呈し、憲法の中に理想的な面の強かつた戦争放棄規定のごときは、冷厳なる光線のもとに照らされて、何らかの展開をみなければならない光景を呈してきて、これに対していわゆる進歩的なる考え方と、いわゆる保守的なる考え方が種々なる姿において悶えつつからみ合つている。
 憲法は、国民の動き方を秩序あらしむる根源の法則であり、人間が変化してやまざる情勢のもとにあるときに、いたずらに憲法を固定的に扱うべきものではなくて、冷静な判断と明敏なる考慮とに基づいて善処してゆくこともやむを得ないのであり、時代の進歩よりも一歩先んじて、よき世界が進みきたることを待ち設けておつた当初の喜びは消えるにしても、やむを得ざるものはやむを得ざるものとして忍従するところに、大国民の堅実さがあるかもしれない。

若干の疑問

  • 憲法解釈の変更に関して首相が政府の最高責任者」でなければ、「憲法解釈の変更に関して...政府の最高責任者」なのは誰か?
  • 政府の最高責任者が負う責任とは何か?
  • 政府の最高責任者は何かしら義務を負うのか?
  • そうした義務に対応する権利は何かある?もしも何かあるなら、誰がその権利を持っている?
  • このような責任、義務、権利に国民はどう関わるのか?
  • 国会が法案審議を通じて憲法との整合性をチェックすれば、国会は「憲法の番人」になれるのか?
  • 内閣がその「権力を抑制的に行使する」のを目的とするなら、国会が法律の制定によって内閣の権力公使を抑制するだけではだめなのか?
  • 民主党の枝野憲法総合調査会長は「権力者でも変えてはいけないのが憲法」というが、その憲法とはどのようなものか?
  • 現行の日本国憲法はいわゆる明治憲法を改正したものか?
  • 日本国憲法の改正に限界があるならば、その限界は誰がどのようにして定めたのか?
  • 何が憲法であるかを時の政府が決定してしまう制度なぞ国家たるものが採用しえないものなのか?

余談

 中国政府高官がダボス会議で問題発言で紹介されているChina-Japan Conflict Could Lead To War - Business Insiderには、凄烈な誹議に誰であれ戦くかもしれない"One of the guests, an influential Chinese professional"の発言の趣旨が紹介されている。ここではその発言の一部に注目してみたい。

He then explained that the general sense in China is that China and Japan have never really settled their World War 2 conflict. Japan and America settled their conflict, he explained, and as a result, the fighting stopped. But China and Japan have never really put the war behind them.

 記事執筆者はこの説明が一連の強硬な発言の前置きにすぎないとしか理解していない気がする。それでは、ここ最近報じられている日本・ロシア間の平和条約締結に向けた動きを踏まえてこの発言を読み解くとどうなるだろう。<第二次世界大戦に起因すると中国が考える領土紛争の解決のために、日本と中国の間でも真の平和条約なるものを速やかに締結しなければならない>という趣旨のことを中国側が強く求めているだけのように私には見える。

...

 「世界の情勢は険悪なる姿を呈し」ていると吐露した金森が仮に生きていたならば、国民主権を前提としながら外交と憲政とを深く関係づけて運用しようとする現在の安倍首相の姿勢をどう見ただろう。

*1:入江俊郎 - Wikipedia

*2:佐藤達夫 (法制官僚) - Wikipedia

*3:林修三 - Wikipedia

*4:高辻正己 - Wikipedia

*5:「あとがき」p.224によると本書の題名の読みは「けんぽういげん」である。

*6:pp.31-36

*7:pp.31-33

*8:pp.214-216

*9:pp.217-220

*10:pp.218-220

*11:pp.772-773で金森の「新憲法明治憲法の改正か」の一部を引いている