blechmusikの日記

キー・カスタマイズ・ソフトウェア "DvorakJ" の覚え書きをはじめとして様々なことを書いています。

山中湖湖畔へに行き富士山や花火を見た

 山中湖湖畔に大勢の人々が集う、とあるイベントのチケットを頂戴した。当該イベントに参加された方ならば、下記に示すチケットがIグループで整理番号が一桁台ということから、私がかなり早く会場に入ることができ、よい場所を確保しえたことが分かるだろう。言い換えると、開場から開演までの1時間30分をその場所で過ごしたということだ……

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 こうして先日、富士山(イベントの会場の後ろに富士山がそびえ立っていた)や花火(イベントの一環として打ち上げられた)を見ることができた。その節はどうもありがとうございました。


 イベント終了直後には、なぜこれほど多くのファンがイベントに赴いたのかと疑問を抱いた。アクセスに少々難があるというか、東京近郊であるならば日帰りでの帰宅するのがやや困難な場所でイベントが開催されたのである。イベントの終了時刻(20:00)には通常の路線バスの運行がすでに終了しており、近隣の駅にアクセスするにはタクシーを利用するしかない。隣駅までのタクシー代金をイベント参加者は皆支払うのだろうか?
 イベント終了後に分かったのは、イベント参加者の多くが、自家用車や、中距離のいわゆる高速バスを帰宅の手段として利用したということである。タクシーを利用せずに、速やかに帰宅する手段をあらかじめ用意していたのだ。それならば交通費用をある程度抑えられるだろう。もっとも、若干名はタクシーを呼び帰宅の路についたようである。費用に関しては、社会人であればそれほど気をもむことがないのかもしれない。
 私はこのように交通費用の問題にまず目を向けたのだが、より多くのファンを呼び寄せられた要因として、イベントが土曜日に開催されたことも考えられるだろう。疲労の回復の観点から、社会人ならばイベントには日曜日よりも土曜日の方が参加しやすいだろう。
 費用と日程の両方に対する社会人の懸念が抑えられたおかげで、今回のイベントに多くの人が集うことになったと思う。運営側の視点にたつならば、費用については運営側で全面的に統制することはできないのであるから、日程に対する社会人の懸念を緩和することに成功したのだろう。


 次に、こうしたイベントのファンは一体何を求めているのだろうと考えた。
 畏友の示唆によると、ファンによって抱いている感情は一様とはとてもいえず、男女や年齢によって異なるらしい。ファンはおのおのが自由に己が欲するものを求めているようだ。
 そこでファンの視点から運営側の視点へと注目の的を向けて、運営側はファンに対して何を提供しているのかと想像してみた。ファンが異なる感情を抱くことをふまえると、運営側は、多くのファンの心をつかむよう求めるのではないだろうか。たとえファンに対して公式的な情報を一方的に送りつけることがあるとしても、せめて、ファンがどのようなことを考えても許容されるような雰囲気を作り出す、より積極的には、受け手が様々に解釈できるような情報を提供する。情報の送り手たる運営側は、情報の受け手たるファンの幅広いニーズに応えるよう、ファンにさまざまな情報を提供しているらしい。それでは具体的にどのような特性のものを提供しているのだろうか。
 畏友によると、ファンが見ているのは実は競争者のいない世界らしい。ここでいう競争者とは他人を蹴落としてでも這い上がろうとする者を指す。今回のイベントの主人公は、同業他者と比較すると、そういう意味での競争者とはファンからみられておらず、互助の精神を発揮してきたようだ。ファンは競争者のいない世界の中に、ファン自身が望む世界を自由に見いだしている。
 競争者のいない世界という美しい互助の世界の像がファンにもたらされて、競争者のいない中で主人公が自由に踊り回るようになる。運営側はこうした世界の構築をファンに許容してきたらしい。


 最後に、主人公たる人々に対して望むことを(主人公たる人々に関して運営側に対して望むことを、といった方が適切であろうか)門外漢ながら言及しておきたい。
 私はこうしたイベントにおいては、息を切らす行為を全く無くすことになろうとも、人々が音程をコントロールすべきだと思う。イベントが終盤に向かうにつれて、人々の音程に対するいわば感受性が明らかに低迷する状況を目の当たりにし、そうした考えを強く抱いた。息を切らした人々が音程をコントロールすることが徐々にできなくなり、周囲の人々に多大な影響を与えてしまうのだ。
 ファンの多くはつぎのように言うかもしれない。人々は精一杯努力をしているのだから競争は必要がない。人々の中には音程のコントロールに秀でていると思われる者も確かにいるが、それは才能であって、他の人はそのままでよい。無理にがんばる必要はないのだ。
 だが、私が感じ取った限りでは、どの人々も自身の音程をコントロールしようと必死になっていた。なんとかして自分の担当箇所を立派にこなそうと努力していた。
 しかし、人々を苦しめていたのは人々自身なのであった。A氏が担当し、続けてB氏が担当するときに、B氏の音程がA氏の音程に大きく左右されていたように聞こえた。
 人々は今後次の二つの対処策を講じなければならないだろう。第一に、他者からの影響を排除して自分の担当箇所をこなすようにし、第二に、他者によい影響を与えるようにする。
 第一の点は、他者からの悪影響を断ち切るために必要とされる訓練だろう。今回のイベントでは息を切らせるような行動が数え切れないほど多かったが、真っ先にこなすべきトレーニングはこれではないのだろうか。もっとも、ファンによっては、音程がそろうということは二の次であって、息を切らせるような行動を人々に熱烈に求めるのかもしれないが。この点が、私とそうしたファンとで見解が大きく異なる箇所だと思う。
 第二の点は、一見すると第一の点と大きく対立するように見えるかもしれない。しかし、どちらも他者とのつながりを完全に断絶させることは不可能であることを想定しており、そうした状況下でよりよいものをつくる方策だといえる。第一の点は、他者からの悪影響を被らないように、自分自身を律することができるようにすることだ。ここでは他者からの影響が悪影響かどうかを判断しなければならない。第二の点は、他者に悪影響を与えるのではなく良い影響を与えるよう、自分自身を律するのみならず、他人をも律するというか手助けすることである。他者のために自分自身を高めるといった方がわかりやすいだろうか。人々が複数名で活動する場合に、こうした考えを否定する人はほとんどいまい。
 理想的には第一の点に続いて第二の点が充足されることになるだろうが、現状ではまだ第一の点が満足に達成されていない。
 運営側には上記の二点に速やかに対処するよう、策を講じてほしいものである。早急に対策をとれば、第一の点については次のイベント時までには修正が可能だと思う。


 余談であるが、今回のイベントでは相当大きな音量が聞こえるであろうと推測して、レッドフィルター搭載のEarPeace HDを持参した。会場に入って大きなスピーカーが設置されているのを確認し戦きながら、実際に装着してみると、EarPeace HDは高音の遮音性に優れていることがよく分かった。私は普段あまり大きな音を長時間聞くことはないから、開場開始時の15:30からイベント終了時の20:00までの計4時間30分もの間、このイヤーピースを使わずにスピーカーからの音を間近で直接聞いてしまっていたら、疲労がかなりたまっていた気がする。

EarPeace HD /イアーピースHD Red ケース

EarPeace HD /イアーピースHD Red ケース


 私の周囲の人十数名はイヤーピースを誰も装着していないように見えた。イベントを訪れるファンの人々にとって、こうした大音量に慣れ親しんでいるものであり、気にするほどの音量ではないのだろうか?私が知らない世界は身近(?)に広がっていることを知った場面だった。