blechmusikの日記

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「興味深い」訳本に関する雑談への私見

はじめに

 長尾氏が翻訳した『純粋法学 第二版』に対する雑談を見かけた。「書生クン」さんは疑問点をいくつか呈しながら、この翻訳書の位置づけを考えている。

純粋法学 第二版

純粋法学 第二版


 「書生クン」さんの雑談からいくつかの話題を取り上げて、「書生クン」さんが「興味深い」と呼ぶこの訳本の件について私も考えてみたい。

「なぜここまで引っ張ることになったのか。」

 「書生クン」さんは「何だかんだあっても、90年代の中盤ぐらいに上梓されえなかったものだろうか。」と述べている。そこで想起されるのは、尾吹氏によって1991年に訳出された『一般理論』の存在である。この書籍が1990年代に翻訳されたことを受けて、長尾氏は『第二版』の翻訳の必要性をそれほど感じなかったのだと思う。


 こういう言い方をしてしまうと語弊があるだろうが、『一般理論』の内容をコンパクトにまとめながら、新たな見解をいくつか含めつつ、法解釈に関する見解を示して筆を擱いたのが『第二版』である。『一般理論』は、英米圏の有名学者の見解を批判しながら持説を構築する、従来の独仏圏の読者ではなく英米圏の読者を想定した著作となっている。先述したとおり、この『一般理論』は尾吹氏によって訳出されたのであるが、氏はフルブライト留学者で英語に堪能であり、かつカール・シュミットの『憲法理論』をドイツ語の原著から訳出したことから分かるように、ドイツ語の能力にも秀でていた。尾吹氏の『一般理論』翻訳は非常に読みやすい文章となっており、通読しやすいだろう。残念なことに本書は現在入手困難となっている。

憲法理論 (名著翻訳叢書)

憲法理論 (名著翻訳叢書)

 しかし、法解釈に関する見解は『一般理論』に掲載されていないのだから、それだけは訳出する必要があるのではないか?長尾氏はおそらくそのように考えて、『第二版』の最終章を、『第二版』全訳前に既に訳出している。『ハンス・ケルゼン著作集 第IV巻 法学論』の最終章「法の解釈(1960・長尾訳)」がそれである。余談であるが、このような法解釈に関する見解が強く示されたのは、国際法の考察をすすめるうえで実践上の在り方を周囲から問われてきたためだと思う。1950年の著作『国際連合の法: その基礎的問題に関する批判的分析』(The Law of the United Nations: A Critical Analysis of Its Fundamental Problems)には「解釈に関する序文」(PREFACE on Interpretation)が掲載されている(pp. xiii-xvii)。この序文は長尾氏の『ケルゼン研究III』第二章の「VI ケルゼンの『実定法学』」において大部分が翻訳されている。このように、解釈に対する自身の見解を全面的に示す必要を改めて感じたのではないだろうか。


ハンス・ケルゼン著作集〈4〉法学論

ハンス・ケルゼン著作集〈4〉法学論

The Law of the United Nations: A Critical Analysis of Its Fundamental Problems (Library of World Affairs)

The Law of the United Nations: A Critical Analysis of Its Fundamental Problems (Library of World Affairs)

ケルゼン研究 3 (慈学社叢書)

ケルゼン研究 3 (慈学社叢書)

「なぜケルゼンにこだわるのか」

 長尾氏は1994年に刊行した『リヴァイアサン』の「あとがき」で、ケルゼン研究に注力する理由を以下のように自ら明らかにした(pp.257-258)。

リヴァイアサン (講談社学術文庫)

リヴァイアサン (講談社学術文庫)

 ……もう1世代前の日本人は、支配と抑圧の国家主義を体験した。新婚家庭と働きがいのある職場から、突然赤紙一枚で引き離され、殴る蹴るのサディズムの対象となり、前線に連れ出されて、生命や健康や身体の部分を失っても、運命とあきらめさせられた。
 ……
 旧満州日本人学校に入学し、「元気で体操1、2、3、国民学校1年生」という歌を習ってほどなく、捕虜の身分に転落したという「戦末派」の私は、引揚げ後、孤児的環境の中で、軍隊帰りの叔父のサディズムの対象になるという仕方で、抑圧の国家主義の余波を体験した。
 1960年代、研究者となった私は……依然としてドイツ国家主義を法理論的に解体しようとしたケルゼンの法理論の研究に精力を傾注していた。幼児体験の拘束から抜け切れない私の思考は、国家を抑圧機関と見る今世紀前半の思考様式のまま停止した時代錯誤なのかもしれない。

 ケルゼンが抱いた国家論を包括理解し、それを拠り所とすることで、幼い頃の自身が実際に目にしてきた過去の制度を冷徹に分析し、抑圧的な制度の根源を問い続けてきたのである。
 とはいえ、このような長尾氏の問題関心が現在においても保たれているか不明である。とりわけ、「ドイツ国家主義を法理論的に解体しようとしたケルゼンの法理論」と長尾氏が未だに理解し続けており、そうした理論を把握しようと模索しているのか分からない。

「手っ取り早く純粋法学・ケルゼンを知る」

  • ケルゼンの略歴と学術上の成果を広く捉えるには、ホルスト・ドライアーの「『世紀の法学者』?」*1をすすめたい。

ユダヤ出自のドイツ法律家 (日本比較法研究所翻訳叢書)

ユダヤ出自のドイツ法律家 (日本比較法研究所翻訳叢書)

  • 作者: ヘルムートハインリッヒス,クラウスシュマルツ,ミヒャエルシュトレイス,ハラルドフランツキー,H.C.Helmut Heinrichs,Michael Stolleis,Klaus Schmalz,Harald Franzki,森勇
  • 出版社/メーカー: 中央大学出版部
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  • ケルゼンとカール・シュミットの対比は尾吹氏の「ケルゼンv.シュミット、三つの争点」*2がわかりやすい。
    • 両者の著作の翻訳者である尾吹氏は「1.国家観」「2.民主主義論」「3.『世界』観」の3点から両者の議論を対照している。
    • ちなみに、尾吹氏がこの論説を当初公表したのは1988年であり、これは『一般理論』の翻訳書を刊行する3年前にあたる

憲法の基礎理論と解釈 (学術選書)

憲法の基礎理論と解釈 (学術選書)

  • 純粋法学なるものを手っ取り早く理解するには、ケルゼン自身による1953年時点の解説「純粋法学とは何か」*3がよいだろう。
  • 純粋法学と呼ばれるものの変遷を把握するには、"General Theory of Norms"に収録されている Michael Hartney の小論"Introduction: The Final Form of The Pure Theory of Law"(pp.ix-liii)はどうだろうか?
    • これは、遺稿集『規範の一般理論』("Allgemeine Theorie der Normen")をすべて英訳し、"General Theory of Norms"と題して刊行したMichael Hartneyが、同訳書の冒頭においた小論である。
    • ちなみに、本訳書では、原著本文のドイツ語はもちろんのこと、ケルゼンがイタリア語やギリシャ語等のまま引用した部分が英語に訳されている

「『総体的』かつ『相対的』に捉えた新たな体系書が必要」

 「書生クン」さんの見解に同意したい。尾吹氏が『一般理論』「訳者まえがき」で吐露しているように、「世界中でまだ誰も、この学説を理解したうえで総合的に超克した人はいない」(p.3)のである。部分的に超克した人はいるとしても、総合的に超克する人が現れるには、いや総合的に超克する人を産出するためには、そうした体系書の作成を経て、総合的な議論が推し進められるべきだ。

おわりに

 最後に、柳瀬氏の講演をもとに、異端扱いされる最先端の理論を求める理由を考えてみたい。
 柳瀬氏はかつて、従来の学者の国家論とその説の受容から、法律学なるものは学問上それほど高い地位には位置づけられないと主張した。「法律学の現状と将来」*4という柳瀬氏の講演に耳を傾けてみたい。
 柳瀬氏は「常識外れのことを言う学問程学問として進んだ学問」(pp.178-179)との見解を示している。常識とは「認識又は判断の中で方法の反省を伴わないもの」(p.179)であり、「常識外れ」とは「常識の内容を一定の方法に従って一定の方向に一面的に発展させたもので、従ってその方法に従って方向を逆に辿って来ると再び常識に帰って来るような認識・判断」(p.179)を指し、その一例が理論物理学である(p.180)。
 次に従来の学者の国家論の検討を行っている。柳瀬氏はこの講演で国家論を説いた学者名を全く明示していないが、ここでいう第一期国家理論はギールケ説、第二期国家理論はイェリネク説、第三期国家理論はケルゼン説に対応している。

 抑ゝ国家は何であるかというのは極めて古い問題であるが、最初の答えは有機体であるということであった。……
 ……日本国というのはその海老や立ちん坊やを何かの原理に依って頭の中で一つに纏めたものであろうという考が出て来るのは一足で、これが国家論の第二期である。……
 ……国家は形のないものから成立っている形のないものであるということで、これが今のところ最先端の国家理論である。……

 柳瀬氏はこの最先端の国家理論が法律学の本流ではなく、異端の扱いを永久に受けるだろうと考えることで、法律学は学問上それほど高い地位には位置づけられないとの評価を下した。

従ってここに至ると、その言うことは徹頭徹尾常識から外れていることは前に言った理論物理学の述べる世界像と同じであるから、若しこれが法律学の本流で、所謂通説であったならば、法律学も学問の間で相当高い地位に就けるのであるが、実際其れは異端扱いで、そして後に述べる理由から、恐らく永久に異端扱いであろうと思われる。即ち今日の法律学の本流・通説はやはり上の第二期の国家理論なので、従ってその点から言うと、西洋でも法律学は学問の中で余り上席に坐る資格をもっていないと結論しなければならぬことになりそうである。

 法律学の本流は常識外れの議論をすることが難しいだろうと柳瀬氏は考えているのだが、その理由を説明している後続の部分はここでは省く。
 このように本流によって異端扱いされ続ける理論を、ある人はなぜ追い求めるのだろう?もしも実際にそうした理論を得ることができたとしても、やはり本流からは永遠に異端扱いされるというのに。柳瀬氏は最先端の理論を求める理由をこの講演では披露していないので、その答えの探求は読者にゆだねられている。
 私は物事を理解しようとする欲求を人々が抱いてしまい、その呪縛から自身では逃れられないからだと思う*5。知識欲に取り憑かれたある種の病と言う方がわかりやすいだろうか。「常識外れ」の理論であっても、物事を把握するためにはそうした理論を必然的に追い求めてしまう。そういう考えに捕らわれてしまう人もいるのではないだろうか。もっとも、どういう人がそうした考えの虜となってしまうかは私にはわからない。